銀河はめざめた

Annaの雑感、ショップ日記、巡礼記、キスマイごと

リリスの炎  #We Too

ニュースを賑わせてる芸能人や財務省のセクハラ問題や、某写真家のモデルさん問題、を見て、、、被害にあったほうが悪いといいうような風潮、セクシュアリティに対する考え方の歪みのようなものに触れてショックを受けたので、思いを紐解く記事を綴ることにします。

Me too、We tooのハッシュタグで性被害のツイートを見るたび、過去の様々な事を思い出します。
だいぶ昔のこと、近しい人に、暴力&レイプシーンのある映像を無邪気に見せられたことがあります。
その時は言いようのない怒りと悲しみで気分が沈みました。
それはその映像を大したことないことのように見せてきたその人に対しての怒りではなく、世の中に暴力的なものが市民権を得たように、普通のことのように「ある」ことに恐ろしさや悲しみを感じたのでした。

(そんな映像なんてたいしたことないよ、暴力はどこにでもある。)

安にそう言われたような気がしました。
そう、暴力はどこにでもある。
でも暴力を肯定してしまうのは違う、そしてそれに慣れてしまうのも。

 

 上記した人物は、過去にお付合いしていた人でした。
本当にいろいろあったけど、良くない言葉で沢山傷つけられたし、別れた後も新しい彼女がいるにも関わらず、性的な関係をせまられたりもしました。
一緒にいたそのころ、私は精神的に幼く、そんな自分にも問題が多々あったと思うけど、しばらくは彼の蒔いた負の影みたいなものに苛まれました。
「私にはたいした価値がないのではないか」というような心の影。
ほんとうに色々有り得ない人だったので、今やネタだ、といって色んなことを笑いに変えて話しているけど、これは笑いにかえるべきことなんだろうかと、今これを書きながら思っています。
私はその時深く傷ついたし、それを思い返すたびに再び傷つきます。

Me tooのツイートで、それがパートナーだとしても強要やマウンティングはDVだというのを見て、あの時のあれやこれはそうだったんだなと改めて感じます。

ナタリー・ポートマンが、「性被害にあったことはなく人に話せるような体験談はないと思ったけど、よく考えたら100以上の体験談をもっていた。」と言っていました。私たちが普通だと思ってやり過ごしていることは、普通ではないことが沢山あるのだと思います。
まして色んな辛い事件や話を聞くと、今元気に暮らしている自分の体験なんてたいしたことのないことに思えてしまいます。でもそれは違うのだと思います。

セクハラ報道の件をハニートラップだと見る向きもあり、相手を陥れるためだという人もいるようですが、もしそうなのだとしたらハニトラを手段のひとつとさせてしまう社会や文化に歪みがあると思います。

そもそもそこが論点なのでしょうか。
だめな事はだめだし、傷つけられた人がいるなら、その人にこそ優しい社会であって欲しい。そこを問題にして欲しい。なぜ被害にあった側が守られず、時に後ろめたい思いをしなくてはならないのでしょうか。

今こういった問題が色々浮かび上がってきているということは、改めて「性」の扱い方について考える時なのかもしれないと感じます。
男性優位でもなく、女性優位でもなく、貶めあうのでなく、すべてのボーダーを超え、お互いを尊重した人間対人間の付き合いができることを願います。
この流れに乗って、人々の意識が変わることを願います。
それを願うことはいけないことなんでしょうか。

力を持った者が立場の弱いものをぞんざいに扱う世界はつらいし、
売り物にされたままの性や売り物にされる性を逆手に取ることで生きていくことも、そろそろ違和感を感じます。

女性だけでなく、男性もみんな尊いはずのセクシュアリティにいく世紀も傷つき傷つけられて、現代だけではなく太古より連綿と刻み込まれてきた、その傷が私の中でひどく疼くのです。それはいつも奥のほうで音もなく燃え続け、静かに訴えかけています。

 

あの時の私たちはそうではなかったかもしれないけど、
今の私たちにはNOと言える知識と勇気があります。

#We Too

 

2018.5.2 加筆修正しました